2008年12月 5日

UP'N DOWN のHIDE 急逝!

UP'N DOWNマスター「HIDEちゃん」急逝!

昨晩深夜、連絡があり、曙町で長年「ロックンロール・ライブ酒場「UP'N DOWN」のマスターHIDEちゃんが肝臓癌で、くなっていた事をりました。

「ローリング・ストーンズ」が大好きで、多くの若者ロッカー親身て続けていました!一本筋を通して、自分の納得出来るミュージシャンしか「ライブ」をさせませんでした!でもっぱらった僕がUP'Nに飲みに行くと「ビートルズ」に関係ある曲を流してくれる、繊細な優しさが、しかったです。

(本日12/5(金)AM9:00 真金町「奉誠殿」で告別式です。)

THE VODKA君が涙目で「今知ったばかりです!」と、二人で夜中にも関わらず、HIDEちゃんにお世話になった人達や友人に連絡しました。

John Johnへの通勤でチャリンコで毎日、UP'Nの前を通っていますが、シャターがしまっていたり、張り紙があったりしましたが、「どうせ、前日楽しく飲んで、二日酔いで遅くなっているのだろう?」位に思っていました。

1ヶ月半前程、UP'Nの前であった時も、「ど〜も、いってらしゃい!」元気ないつものHIDEでした。

信じられません!

本人は最後までげさな事はやりたく無かったそうで、親族でお通夜を過したそうですが、AYAさんが皆にを見て欲しいとの希望があると連絡を受けたそうです。

君は、斎場に行ったそうですが、深夜の為、ドアざされていたそうです。そうこうしているとベースのハマちゃんが来て、暫く3人で「お通夜」の酒盛りをしていましたが、HIDEんだ実感がありません。

かめに行こうと、ハマちゃんとUP'Nの前を通り、焼き肉屋の「SON君」と3人で斎場に行って深夜3時にも関わらず、斎場の人においして、HIDEいました!ていました!

間に合ったら、HIDEに会って下さい!

    ByeBye HEDE! Love & Peace ! See you !

2008年11月11日

デイブ平尾

デイブ平尾氏......逝く。

60年代後半の日本の音楽界をリードしていた、横浜ロックゴールデン・カップスのボーカルデイブ平尾さんがくなった事をTVで知りました。伊勢佐木町通りをしそうにフラフラしていた彼!

三日前も元気ベースの加部さん一家とお会いしましたが、還暦を越えたばかりの僕達の仲間旅立つのはしい限りです。 でも、残った一緒に楽しくきて行くつもりです。

2008年9月15日

クレイジー・ギタリスト 「手嶋博之」

クレイジー・ギタリスト 「手嶋博之」

08/09/14

中秋の名月涙の雨る、クレイジー・ギタリスト「テッシー」

「髷詩鼓」の淑子さんから、ライブの始る前に訃報を伝えられました。奥様の清美ちゃんとも同じ 30年以上の付き合いで、まれると、KENZOと同じ、別人「酒乱」になるでした。多くの人はそんな「別人」「グッピー」やいろいろなヨコハマ酒場で見かけたと想います。

淑子さんは取っ組み合いの「殴り合い」をしたそうですが。何度ってらせてやろうかと思ったことがあります。でも反対「何か」らせて貰ったかもしれません。

ハード・ロック大好きで、いるとうるさく、いないとしい? 何時もギターをかきらし、「ガン・ガン!ギャー!!」でした。

  

でも、おのこと、きだったよ

    天国でも地獄でも Love & Peace .....& Music  テッシー♡

2008年2月29日

ヨコハマ・レッドシューズ

中華街有名「レッド・シューズ」めて入ったのは、
浪人生活をしていた、1967〜8年頃でした。「レッド・シューズ」
らないハマッ子なんていないと言われる程、当時最先端評判
されていたおでした。

いかない訳にはいかない年頃だった僕達は、何時られるからない
くらいない処だとは聞いていました。諸処先輩達の話を聞きかじり、
英語「Sorry!」と言う言葉が、重要らしいと理解していました。
なら「Excuse me!」ですね。

店内に入ると、多くの白人、日本人のセクシー女性そうな
若者れていました。殆ど聞こえて来るのは音楽を始め英語です。
入り口近くにボックス席が少し、左側にカウンター、その奥に
バンド演奏用のステージ、そのもっと奥にトイレ

ここで、「Sorry!」役立ちます、人ごみの中カウンター横を、
トイレに行ったり、で呑んでいる人と体がした時、「Sorry!」

やはり、通り、地元?若者怖い視線雰囲気が、
日本じゃかったです!だって地元で、子供の頃は平気で、
中華街寿町んでいたのですが、青春期独特若者
世界があったのですね!

それら、有名に成った「レッド・シューズ」はディスコ全盛の頃に、
近くにきなおを造りましたが、其処には行った事がありません。

2008年2月26日

ダイヤル式ピンク電話

John John店内のピンク電話は、ダイヤル式10円玉専用です。
昨日外国の方が「I can't Believe !」と、とても面白がっていました。
お客様などでは、TV映画などで見ただけでめて実物に接して、
ダイヤルかけ方が判らないようなにいらしゃります。

先週も、NTTから最新鋭の「新しいモデル御取り替えします!」
って来たので、こんなで可愛ダイヤル式手放せないので、
勿論!その伝えて、交換はお断りしました

携帯電話全盛世の中で、使用されるなくなりましたが。
John Johnには似合うといます。

レトロな店からレトロな音楽バックに、友人携帯電話
ダイヤルしてみませんか♫〜♪。 但し、PHSにはかからないそうです。

20世紀から使っている、の、電話しか出来ない携帯Movaもそろそろ
強制的めさせられそうです。

僕達ゼネレーションいまだに、なんでも使えなくなるまで使う、
習性があります

ましてや、僕達父母は、使えなくなったてない、
関東大震災戦争時代経験者です

    「あぁ〜〜! もったいない!」

2008年2月24日

おみくじ鳥・ヤマガラ

伊勢佐木町「野沢屋」がおみの日、店の前には露天がいろいろ
出るのですが、その中に、「おみくじ鳥」がいました。

さんが来ると、かごけて、にある小さなに向かって、
梯子の様なの上を、ピョンピョンねて、からおみくじ
わえて来ます。すると、おじさんから御褒美をもらえます。

頭の良い鳥「ヤマガラ」といいます。Mama Johnチョウチョ
が大好きで、昔許可を貰って「ヤマガラ」を飼っていました。
縦長5〜60cmの竹の鳥かごで、クチバシるため金属は一切使用しておらず、
上部の横に10cm程の小部屋が付いていました。

常食「麻の実」で、止まり木にとまりながら、器用「麻の実」を動かし、
真横の部分をコツコツ叩いて、中身だけを食べていました。個体によっては、
止まり木「大車輪」をしてんでいたものです。

小部屋下部には2cm角程のがあり、竹の節を利用した凧糸で吊るし
そこへ落花生ミノムシなどの御馳走を入れると、これまた器用に少しずつ、
凧糸手繰って、ゲットするのを見ているのがしかった!

かごの所々には、Mama John凧糸や、ナイロン糸を結んでおり、
「ヤマガラ」は此れをほぐしたりして、んでいましたが、一番面白いのは、
御馳走をその結び目などに「隠す」ことでした。
ちらっとったりしてね!可愛いかったな!

2008年2月20日

ホンチ

「ホンチ」ってっていますからない人が多いでしょうね
こんなローカルオールド言葉

John Johnをはじめて、全国からいらしゃるお客様と話していて、
「チャリンコ」「ホンチ」横浜独特言葉で、
他県の方には理解出来ない言葉だったのです。

が子供の頃、このホンチと言われた蜘蛛の雄を捕まえて
「蜘蛛合戦」わせてんでいたのです。
学名は「ネコハエトリ」と言うそうで、大きいものは足を広げて
全長1.5cm位の、腹に白い模様のある黒い蜘蛛です。

「駄菓子屋」で売っていた、キャラメル箱位のに、
つに分かれた引き出しがあり、捕まえた蜘蛛は各部屋に収容し、
器用な子は改造して、ぴったりのガラスを組み込み、
ふたを開けると各部屋が覗ける様にしていました。大概は小さなガラスを持ち、
引き出して今日の選手を選んでいました。一匹用のフタ付き小箱もありました。

さて戦い方ですが、マッチ箱にそれぞれ自慢「ホンチ」入れ、
ガラス越しに「合戦」を見ますこれが格好良いのです
お互いの「ホンチ」前足高々げ、相手を威嚇し出します
それが、まるで柔道プロレスの試合のように、
遇い接する前の緊張感は同じです。

戦意の無い時には、マッチ箱を指の爪先で、
コリコリ音と振動を与えていました。勝負は一瞬!
噛み付き、負けた方は逃げ出します。此処で試合終了!
自分の選手を元の箱に戻します。

そのままにしておくと、何日も箱に収容されていた「腹減らし」
共食いされてしまいます。互角の戦いをして、片手を失った、
それまで強かった「ホンチ」にも愛着があり、箱で飼っていました。

「ホンチ」は「蜘蛛の巣」を造らないため、野原や生け垣の「柾」などの、
日当りの良い葉っぱの上に居ました。特に強いと言われたのは「バラボン」
と言われた、バラの木に生息しているものです。

同じハエ取りグモの一種で「ホンチ」に似たを持っと言われた
「カンタ」、グレーの「ババ」なども僕の遊び友達でした?
現在の僕が住んでいる、古〜〜い木造家屋では、たまに「ババ」徘徊
しています!かしい友人の行動を観察している時間はしいです。

本物「ホンチ」何年も見かけていないのは、しいかぎりです!
家の周りは雑草が生い茂り、「柾」も茂っているのに!あんな強かった
「ホンチ」環境の変化には弱かったのですね!

2013年には、北極海の氷が全部けてしまうそうですよ
   僕達出来る事は?♡?

2008年2月17日

「きんた」

Mama Johnの根岸の実家の側には「きんた」と言う「駄菓子屋」があり。
「めんこ・ビー玉・べーゴマ」などを買って、隣の遊び友達の少年に
ゲームの仕方を教わりましたが、近所で勝負するとめちゃ負けで、みんなられてしまいました。

当時、街のあちこちに、シートをかぶしたベーゴマ専用の一斗樽があり、子供達が群がっていました。の無いベーゴマを廻すには、ちょっとした技術が必要で、
木綿のヒモの先端近くに、二つの結び目を作りべーゴマの尖った部分に巻いて
廻していました。巻ききった部分に「五円玉」を付け滑り止めにしていました。

僕の家の日ノ出町の現像所には、6x6版フィルムスプールほどあって、分解した一部を五円玉代わりに使っていました。それを投げて「銭形平次」の真似も良くしていました。

2008年2月11日

「なまこや」

宮川町「かもめ座」の前に「なまこや」と言う、駄菓子屋があって、
小遣いをもらうとんで行ったものです。

好きなのはに設置してある「当て物」で上部に一等の大袋が2個で、
段々小さくなり、下の部分は、くじが入っている袋で、中がいフワフワの物で
チョコレート色のコーティングをした、豆粒のようなお菓子が入っていて、
食べると舌が茶色になります。二等までは当てたことがありました。

きな粉がまぶされている「あんこ玉」は、当たりは中に「かわり玉」
入っていて、もう一つ貰えます。大きさがまちまちで、きな物は絶対ハズレで、
さな物程、良く当たりました。

底に穴の開いた試験管に入った、透明の赤の寒天ゼリーの上部の部分に
二重の紙が入っていて、帽子をかぶった少年の絵が出ると当たりで、もう一本!
同じ寒天でヨーグルトの瓶に、細かく四角に刻んだものもありました。
勿論、真っ赤です。

五円のものと、三円の小瓶の「ラムネ」
年上の少年がビー玉を落とせるのが、ましかった!

「ソース・イカ」は足だけで無く、身の細切りもあって、どちらでも選べて
大好物のトップでしが、じゃ生のイカも食べられない「歯無しジジイ」
になってしまいました。

フワフワせんべいに付ける「梅ジャム」は甘い「オレンジジャム」
もありました。このオレンジジャムに似た味で、試験管に入っていて、
竹ヒゴで食べる、一本が二色に分かれていた物があり、もう一度、
食べてみたいのですが名称が判りません。

店の奥は普通の家の畳敷きで、真ん中に五円で「もんじゃ」が出来る
鉄板があり、おばさんが支度をしているに、ソースだけをいて
食べるのが冒険でした。

「ところてん」は、く塗ってある黄色い箸を「一本」渡されます。
この「一本」で食べるのが、何故か正しい流儀なのです!

子供の頃将来「駄菓子屋の親父」になるのが「夢」でした。
John Johnハイネケン「くじ」お客様盛り上がっている時、
ふと、その事を思い出します!

2008年2月 8日

バナナ室(むろ)

先日お客様と話していて思い出した事があります。

John Johnの前の通りを福富町を越えて
「宮川橋」を渡った次の角の右側に、
「バナナ室(むろ)」がありました。
当時、近辺は港町独特の「運河」が沢山交差していて、
「材木屋」「石炭屋」「石材屋」「輸入食材屋」
などが運河を利用してハシケに満載して配達していました。

若い方は知らないでしょうが、川岸の所々に水面近くまで傾斜した
逆台形の「荷下ろし場」が在り、船から10メートル程の板を渡し、
両天秤モッコに入れた荷物を人夫が、上下に揺れる板の上を
リズミカルヒョイヒョイ「職人技」で運んでいました。

当時は「台湾バナナ」が主流で、今のバナナより、
ず〜と大きく甘く、美味しかったです!

「室」地下に在り、一本に100本近く付いている「緑色」
ごと何束か、大きな竹籠に入れ、「黄色」くなるまで熟成
させていたのです。

時々、熟成しすぎて黒い斑点が出て、売り物にならないバナナ
「室」の前に捨てあり、腹を減らした「浮浪児」達のごちそうでした?

当時、バナナ美味しく栄養が有って、しかも割りと高価果物で、
遠足病気にならないと、お目に掛かれない品物でした!

 「ねぇ〜〜!御同輩!」

2008年2月 5日

へびや

伊勢佐木町4丁目の交番の側にある「へびや」はビルになって
 今もありますが、今日昼間通りかかった時はウインドウ
 「キングコブラ」
の標本が有って、ずいぶん大きなもので
   ビックリしました。4mちかくはあります。
あんなものに、立ち上がり睨みつけられたら、恐ろしいです!

が子供の頃は、確か瓦屋根で3メートル程のように前が開いていて、
 廻りホルマリン漬けになった標本が置いてある不気味な空間で、
  生皮剥がされたピンク色うさぎ
  気持かった想い出があります。

また、周り中に独特強力「漢方薬臭」発散しており、
 もっと強力なのは人出多い日にやる
  「蛇の解体ショー!」です。

当時、5丁目にPapa John
「○○カメラ・エクスチェンジ」
があったので
  何十回見物しました。

大体「青大将」「縞蛇」です、ドクターコートを着た人が、
 首根っこに「メス」を入れてコップめます。
  それからを割い心臓グリーンキモ取り出し小皿に移し、
「ほ〜ら!見てご覧!心臓は未だ動いているよ!」
  本当心臓ドキドキうごめいているのです

水で薄め見物客廻し飲みさせます、一回飲まされましたが、
 生臭くって二度見物したく無くなりました。
  まんまと「へびや」追放されたのだと思いますね

そこで此れはと思う見物客に、多分「焼酎」だと思えるショットグラス
「心臓」
れて、一気飲みさせていました。
  そんな中で一人か二人、店の奥に入って行って処方を頼んでいました。

では「動物愛護協会」っていないのだろうな
 でもちゃんと「薬」になって、焼いたりしてべられますから、
何がいけないのか良く判りません?「漢方」の方がナチュラルなのに

2008年2月 3日

見世物小屋

横浜公園には「横浜スタジアム」がまだ
 今より小さく「平和球場」呼ばれ

伝説ロック・コンサートを行なった「野外音楽堂」

 銀色大きなかまぼこ型ボクシング
  美空ひばり・島倉千代子など歌手公演を行なったりする
「フライヤージム」
武道場噴水チャペル
  懐かし「ミルクホール」などがあり
(今で言う喫茶店ミルクジュースパンお菓子が有りました

でも5月の末から6月にかけて「開港記念バザー」
 行なわれていますが、昭和30年代には公園の中より、
外の露天買い食いしたり、当て物と言われたゲーム賞品
 取るのが楽しみで、女の子達プロマイド屋群がっていました。

当時市役所海側には、空き地がっていて、
「お化け屋敷」「サーカス」、 2軒程
 「見世物小屋」立てられていて。良く出口から入ったり
   覆い幕隙間から 只入りをしていました。

「見世物小屋」宣伝用オドロオドロシ
  飾ってあって、呼び込みオジさん長い棒
   指し示しながら、名調子解説
    お客さん興味惹いていました
「牛女のハナちゃ〜ん〜ゃ!お客様に御挨拶!」
  すると内側から若い女の子だけ出して
  集まった人達不気味微笑みます?!?
「顔下半身珍しい生き物だよ!」
 「さぁ、さぁ~!入って見てご覧!」誘います。

では美女の顔付いていますが、実物現代では
 絶対許されないハンディ持った人達
「改造」されていたのです「牛女」着物から見せる、
 多分足の指切り落とし、二つに割った「蹄」見せた足です

美女「へび女」二つ切られた女性です

筋骨隆々から噴いている「ガソリン男」
 ジョニー・ウインターアルピノ老人
「今日消防署がうるさくて、少しだけ!」などと
 「おがくず」ガソリンしみ込ませ含みをつけ、
  チョロチョロとした「火の粉」飛ぶだけでした。

「井戸」にいる「人魚」は、
   一番「楽しい想い出?」です
「井戸」中間水槽があって、その「ブラジャー」着け
 「魚のズボン」をはいた「雑誌」「灰皿」置いて、
の中で不貞腐れて、たばこ一服しているのを目撃しました。

このから「インチキ」とは言い切れない、こんな「世界」
  何か不思議好感的感覚覚えました。

露天羽織袴を持った「がまの油売り」凄いです
 絶対苦情が来ない様な、ボロ服着た子供見つけ
 「イボホクロとれる!」ワセリンたっぷり
  「がまの油」付け覆った指
 強引ホクロ引き剥がしていたのです。
  子供痛く引きつらせていました。

ワセリン付いていたので、出ない訳なのですが、
「がまの油」が、その後売れるのです

2008年2月 2日

メリーさん

最初彼女認識したのは小学生後期(昭和34〜5年)で、
 今オデオンの前の交差点でまるで教科書絵本に出て来る、
  明治・大正時代「舞踏会」の衣装の白いドレスを着た、
 「変な人」だなぁ〜にしか思いませんでした。

それから最後まで、曲がった意外外観変わらず
 松坂屋からGMビル移動する時に、
  John John歩いていました。

たまに目が遇っても長髪のヒッピーには
 何反応も示さずクール「無視!」
「触らぬ神に祟りなし!」決め込んでいました。

John Johnから見ていたり、見かけたりして楽しかったのは、
 初めて「メリーさん」見た人一瞬凍り付き、
  驚きの余りアングリ開けたりするです!
    そんな時メリーさんは、その人「無視!」

「根岸家」の、愛称「若葉町マンション??」
  に住んでいた1970年代中期には、
  直ぐ側「ラブホテル」になる
  瓦屋根「連込み旅館」があって、
 何度重役風紳士出て来るのを見かけました。

では「スマタ」とか「フェラが凄い」とかがありましたが、
 お客様で、実際彼女一晩過したは、
 「SEXとかじゃ無くて、こんな人存在していることが不思議で、
   話聞きながら、食事休む処提供したかったんだ!」また、
「彼女プロ何かしようとするんだ!」ともおっしゃていました。

でも「森永ラブ」「松坂屋」「GMビル」
 関係者はいろいろ困っていたそうです?!?

は、変な理由映画ヨコハマ メリー」観ていませんが、
 いつか観たら感想を書きたいです。

2008年1月30日

根岸家

最近若者観光で訪れた方から「メリーさん」
「根岸家」のことを良く聞かれます。

John Johnをはじめて、1972年から76年の間、
「根岸家」斜め前公団アパートに暮らしていて、
ニューヨークに今もある、ジャニス・ジョップリンなど、
多くのミュージシャン・アーチストが住んでいた
「チェルシー・ホテル」を気取って、
  「若葉町マンション」と呼んでいました。

以前書いた「デパート・赤灯台」の直ぐ横に
「根岸家」
はあり、 たまに友人達夜中に、
 古いたたずまいの石畳を歩き中に入ると
   いつも「別世界」展開されていました。?♪〜!

食べ物は、和食・中華・洋食となんでも在り、
   チープバンド演奏も時折あり、
酔いどれオンパレード
 マドラスさん(下級外国船員)  
  カツラがとれたオカマやくざ風人種
    飛ばし激論する学生
    お揃いステージ衣装の
バンドマン
 酔っぱらい同士のつまらない喧嘩
   酔いつぶれてあちこちで寝ている

お隣「ニュー・テアトル」映画館
 John Johnにも出していた、
  片腕無い紳士帽「ボルサリーノ」をかぶり
   革靴柄ものスーツ子分を連れて、
 肩で風を切りながら、 「よぉ!」と声を掛けてくれる、
   怪しいオッサン

いろいろ噂話は聞きましたが、 最後まで、
 失ったいきさつは聞けませんでした。

「何でもあり」世界で、店員さんには「注文」
  以外は「何事も起っていない」世界です。
   「無視」とは違う世界だったような?
     全て「受け入れ」世界だったのかな? 

最後火事無くなりましたが、
 これも不思議怪しい噂事件でした。

たまにJohn Johnでのインターナショナル喧噪
  ミニ「根岸家」想うことがあります。

2008年1月16日

デパート赤灯台

昭和20年代伊勢佐木町通りには真ん中車道で、
歩道の上にはアーケイドと呼ばれた屋根が連なっていました。

「松坂屋」が「野沢屋」「松屋」と言う
老舗呉服屋デパートになっており、
現在「不二家」米軍「将校クラブ」
日本人入れませんでした。

二丁目「ローソン」あたりに「不二家」が在って、
ソフトクリーム
食べさせてもらうのが楽しみでした。

スーベニアショップと呼ぶ
外人観光客向けのお土産屋多数在り、
日本人なら絶対着ない!
派手絹製の服や、扇子・刀・掛け軸などなど、
まがい物ぽい商品もならんでいました。

三丁目には、現在「ユニー」「赤灯台」
愛称で呼ばれた「まつきや」が在って、
屋上遊園地があり、
愛称である「赤灯台」立っていて、
乗れる飛行機4台廻っており
乗っていて伊勢佐木町
真上出る時は
少し怖かったのを覚えています。

確か此処のエスカレータ野沢屋松屋より
早かったような気がします。

2008年1月13日

昔の野毛商店街

東京オリンピック開催前までは、吉田町から都橋を渡って野毛山に向かう
野毛商店街には、歩道の道路側にどちらも常設の露天が在り、
印鑑・眼鏡・万年筆・時計・服飾品・占いなどの店がぎっちり商売していました。

桜木町に向かう大きな交差点には「傷痍軍人」と呼ばれる
戦争体の一部無くした人達が、まるで「死に装束」の様な格好で
アコーディオン・バイオリンなどで悲しげな曲や軍歌を演奏し募金を募っていて。子供心怖くて近寄れなかったものです。
救世軍
と呼ばれたキリスト教系のアメリカの南北戦争当時風の服装をして、
大きな募金用のの横で、やはり楽器を演奏していましたが、傷痍軍人達とははちょっと離れた場所に追いやられていた様な印象がありました。

2008年1月11日

ギブ・ミー・チョコレート

 吉田町「○○カメラ」の裏を15メートル程歩くと運河ハシケ
「ちょいの間」の在る船など係留され、
その他様々な船が行き来していました

家族生活していた人達も多く、
その子弟専用の学校が在ったのを記憶しています。

また浮浪児が沢山居て米軍ジープなどに
「ギブ・ミー・チョコレート!」と叫び群がりました。

ある日ジープに近づかない僕を見て可哀想に想ったのでしょう、
優しい目をしたアメリカ兵ガムチョコレートを投げてくれましたが、
それは手を出さない僕の足下に暫くあった後、誰かが持っていたのでしょう。

当時はパンパンと呼ばれた売春婦たちは、
お金と同様にストッキング食料などと交換に
仕事をしていたみたいです。

2008年1月 9日

吉田橋

桜木町駅から石川町駅へ向かう道路は昔は運河で、
伊勢佐木町馬車道を結ぶ「吉田橋」が在りました。

伊勢佐木町側には貸しボート屋
アベック子供連れ相手に営業していて、
馬車道側には主に外国人芸者さんに利用されていた
人力車の溜り場となっており、
の上両側の歩道には多くの乞食空き缶を前に座っていました。

カメラを持った人が外国人観光客相手の
商売記念写真を撮らせろとしつこく勧誘していたものです。

の周りには専用の台も在って靴磨きをしている人もいました。

馬車道に向かう左側には「天津甘栗」
右側にはキャバレー「オリンピック」があり、
道路の中央は緑地帯電信柱程の高さの「トーテムポール」
が立っていて、市電道りを越えた
馬車道の入り口左側に「○○カメラ馬車道店」があり
三男の叔父さんは昭和30年代に此処で「珈琲屋」を始めました。

2007年12月31日

根岸の海岸

Mama John八人兄弟次女実家根岸に有り、
 私中学生に成るまで夏休みはそこで過していました。

そこもやはり海岸淵根岸小学校から三渓園まで
 米軍に接収され、小型戦闘機離着陸していました。

中間あたりに漁業者用にに出られるが一本あり、
 堤防が斜めに傾斜して其処だけが飛び込め好きな場所で、
怖かったのは毒針を持ったアカエイぐらいで、
 様々カニなど海洋生物遊んだものです。

根岸湾では海苔アサリ養殖をしており、
 海苔シビ埋めていました。
実家勿論海の近く家庭では海苔魚屋さんで手に入り
 自分たちでヨシズ干し造っていました。

アサリ赤貝沢山採れましたが、
 漁師さんに見つかると、 にぶちまけられました。

そこから潮が引いていれば三渓園海水浴場まで
 海岸伝い歩いていけて、途中に二つの大きな洞窟が在り、
  考えると船舶隠していたか砲台在ったのでしょうね?

今日は大晦日2008年戦争の無い世界であって欲しい!
                               つづく!

2007年12月30日

○○カメラ店

生まれたのは山手外人墓地のそばの無き
「山手病院」
だそうで、
吉田町当時福富町・若葉町全体
 金網囲まれ飛行場もあった米軍施設で、
  そのゲート前「○○カメラ店」在りました。

父親Papa John男五人兄弟長男で、
 他兄弟写真店営んでいました
(馬車道東京駅八重洲口・伊勢佐木町よりの吉田町にもう一軒
    ・日ノ出町に現像所)
吉田町には叔父さん「○○写真館」も在り、
  叔父さんスタジオでは
ストロボマグネシウム「ボッ!」発火
 させるもので、フィルム乾板でした。

不二夫さんから聞いた話では、有名人ポートレイト
 頼まれるとカメラ出さずに、撮られる本人あきれる程
  世間話をして緊張無く成った時に、一枚撮ったそうです。

吉田町には小学校二年ぐらいまでいました。
 家聴いていたレコードは、
  サッチモ、マヘリア・ジャクソン、
   グレン・ミラー、パティ・ペイジ。

日本人では雪村いずみ、江利チエミなどの洋楽でした。

そのころ近所で良く遊んだのは、女優さんに成り、
 今でも活躍しているSさん
John Johnの近くに来た時はを出してくれます。

                       つづく!