2008年8月24日

凡人として生きるということ

凡人として生きるということ デマからの解放

押井守監督が社会を切り取る。
成熟した大人の分別を持つオヤジとは?

虚構のスタイルに踊らされるな!
生きることを留保するな!

自在感を持ちつつ、自分が平凡な人間だということに気付き、
やり直すところから始める。

本音と建前が交錯する映画創り、融通無碍に生きる術、余計な回り道、
恋愛や文化の遺伝、オタク的情熱についての考察も。

「若さの価値」に含まれるデマ

「若い」ということの意味は、生まれてから時間が経っていない
ということだが、それ以外には、経験が足りない、分別がない、
しっかりした考えを持っていないとまあ、そんなものだろう。

分別がないから、若者は無意味なことにお金を使ってしまう。
本人には重大な意味があるように思えるものも、
オヤジの目から見たら、無意味にしか見えないものだ。

例えば、ファッション。個性を表現する手段として、
多くの若者がファッションにお金をかける。
自分の個性やセンスを証明する手段として、
大量生産品の靴や服
得意気に身にまとっている。

だが、本来それは、個性やセンスとは
まったく次元の異なるものであり、
若者は自分が単なる消費者に堕していることさえ気づいていない。

一方、オヤジたちはそんな無駄なものに金を使わない。
大量生産品を身にまとって発揮する個性など、
本当の個性ではないことを知っているからだ。

むしろ、オヤジは若者をだまして、
経済効果を狙っている方である。
ところが若者の目には、ダサい格好をしたオヤジたちが腐って見える。
「ああいうふうにはなりたくない」と思う。
自分たちの個性と信じているものの正体が実は、
その軽蔑するオヤジたちが巧妙に仕掛けたものだったとも気づかずに、
である。

若者に価値はあるのか?

若者は消費単位としても、あまり価値はない。
お金を持っていないのだから、これは当然のことだ。
ましてモノを作る人間としては未熟で、ますます価値が低い。

社会にとって、若者の利用価値はそれほどまでに低いのだ。
だが、オヤジたちは自分の都合のいいことにしか、金を使おうとしない。

オヤジは簡単にだまされないし、無意味なことには興味を示さない。
そうなると、やはり若者からお金を引き出す
しかなくなるのである。

歳を取って、良い意味で狡猾になると、
本音と建前を場面に合わせて使い分け、
強者と弱者を行き来する自由度を得られる、とも。

若さ信仰でない、大人の分別について

人からの押し付けやデマゴギーではなく、
ちゃんと自分の頭で考え抜いて、自分なりの価値を探すのだ。

仕事でも、家族でも、世界平和でも、革命でも、何でもいいが、
自分が準じる哲学を自分の手で勝ち取るのだ。

「セカンドライフで田舎暮らし」とか「引退後はソバ打ち、陶芸三昧」とか、
本当にそれがしたいことならいいが、
世間で流布されたデマ
かどうかを注意深く見抜き、その上で自分が本当にしたいことを探しだす。
そうすれば、自分で自分の人生を選んだことになる。

判断基準は自分の中にしかない
ということに気づくことが大切なのだ。
そうやって内面における自由を得られるということが、
オヤジになるということの本質なのである。

千載一遇のチャンスを、よく考える。

我々はどのように生きればいいのだろうか。
それは、より本能的に、より感動的に生きる
しかないということだ。
最近、僕はいろんな人にこんなたとえ話をしている。

今、家路を急ぐあなたの足元に小さな子犬がくんくんとすり寄ってきた
としよう。本当にかわいらしい子犬で、ぶるぶる震えながら、
あなたが抱きかかえてくれるのを待っている。
もちろん、あなたも子犬を抱きしめたい衝動にかられる。

ところが、あなたはふとそこで思い直すのだ。
待てよ、この子犬をここで抱きしめたら、
きっと家に連れて帰りたくなってしまうだろう。
そうして家に連れ帰ったら、母親や妻に叱られてしまうかもしれない。

いや、家族が犬を飼うことに賛成してくれたとしても、その先が大変だ。
当然えさ代はかかるし、毎日誰かが散歩に連れて行かなくてはならない。
旅行にも行けなくなってしまうかもしれない。ああ、そうなったら大変だ。

ここで犬を抱き上げるわけにはいかない。
犬なら飼いたくなった時に、ペットショップにでも行けばいいではないか――。
そうしてあなたは無情にも、その子犬をそこへ置いて、再び家路につくことになる。

あなたはその子犬との関わりを絶ってしまった
犬なんていつでも飼えるさと、とりあえず将来の可能性に留保して、
今は子犬との生活を拒絶した。

さて、あなたはいつか犬が飼えるだろうか。それは分からない。
飼えるかもしれないし、飼えないかもしれない。ただ確実に言えるのは、
その子犬とは二度と再び会うことはできない
ということである。

確かに、子犬を連れて帰らなかったことで、あなたの暮らしは昨日までの
暮らしと何ら変わらない、穏やかなものになったかもしれない。
だが、子犬を連れて帰っていれば、もっと楽しい、
豊かな生活があったかもしれない。
それこそ、旅行なんか行きたくもなくなるような、毎日の散歩が苦行ではなくて、
楽しくて仕方ないような、そんな暮らしがそこにあったかもしれないのだ。

あなたは何も捨てていないようで、
実は大きなものを捨てている。
少なくとも、何も選択しないうちは、何も始まらない。
何も始めないうちは、何も始まらないのだ。

人生とは常に何かを選択し続けることであり、
そうすることで初めて豊かさを増していくものであって、
選択から逃げているうちは、何も始まらないのだ。

       (~中略~)

つまり外部のモノを自分の内部に取り込むことを拒絶しては
ダメだということだ。

勝負を諦めた時が、負ける時。

絶対に勝負を諦めてはいけない。
だだし、常勝を狙うのは禁物だ。勝負をしなければ勝つことはできないが、
必ず勝とう、絶対に失敗しないようにしようと意気込んだら、
緊張感や気負いや、そんな余計なものを背負い込んで結果的に負けてしまう。

押井さんが経験から得た、美学の定義。

美学というものは、自分で決める道であるとはいえ、
自分勝手なものではいけないということだ。
その美学が社会的に認知、公認されるかどうかは、とても重要な要素になる。

他人からカネをだまし取ることが美学だ、などと思い込んだとして、
そんなものは美学でもなんでもない。
自分の強い思いは必要だが、自分勝手な思い込みはいけない。
だから、絶えず自分の美学が
理にかなっているかどうか

点検する必要がある。

僕の場合は、次に誰からも仕事の依頼が来なくなったら、
「これはヤバイぞ」ということになるだろう。

仕事と恋愛の愉悦点と、その差異

仕事の場合は客観的に評価される仕組みがある。
それは、消費者の評判だったり、お客の反応だったり、
上司の査定だったり、審査員の批評だったりするわけだが、
恋愛の場合は、審査員も消費者もいない。当事者同士で自己評価しあうしかない。

収入もあって社会的にも評価され、誠実にふるまっているというのに、
「あなたのことは、恋人としては見られない」
などと無残にふられることは当然ある。

では、自分をふった相手がどんなご立派な相手を
恋人に選ぶのかと観察していると、
何のことはない、どう考えても世間的には自分より劣っているとしか思えない、
どうしようもない人間とくっついたりすることもよくあることだ。
この不条理こそが、恋愛の面白いところだ

       (~中略~)

人間というものは自己実現の方法として、
常に他人からの評価を得たがる存在である。
だから、社会性の中で評価(=仕事)と、当事者間での評価(=恋愛)という
二つの基準で成り立つ評価のうち、どちらか一つだけでは
なかなか満足できないものなのである。

「オレは仕事だけでいい」というやつは単にいじけているだけだし、
「オレは女だけでいい。愛に生きる」というのはウソに決まっている。

普通は、恋愛の相手からの絶対評価と、
社会からの相対評価の両方をもらって、
やっと満足できるものなのだ。

だから、恋愛の相手が仕事にばかりかまけていると、
「相手は私の下す評価より、社会が下す評価を優先させているのではないか」
という疑心を芽生えさせることになる。

そこで、「私と仕事とどっちが大切なのか」
などと、それこそ相手にとってはどちらか選びようのない
理不尽な二者択一を求めたりするのである。

失敗も挫折もないと、生きているとは言えない。

果敢に戦いに挑む者も現れるが、見事にふられた結果、
「あの女はオレにふさわしくない」なとど、
妙な理屈をつけて自分を慰めようとすることだ。

だが、それをやってはダメだ。本気で相手を好きになったことを否定することは、
自分を否定することだからだ。だから、不幸にして恋愛に敗れたら、
次のように考えるべきだ。

よろしい。確かにオレはふられた。
だが、その結果はオレ自身の世間的な評価とはまったく関係ない。
反省すべき点はあったかもしれないが、それとて決定的な原因だったかどうかは
明かではない。ひょっとしたら、相手の女の子さえ、どうしてオレではダメなのか、
説明できないかもしれない。

だが、オレは彼女に本気でほれた。
その気持ちにだけは、
間違いはなかったはずだ

そういうふうに考えれば、いちいち傷つくのがバカらしくなるはずだ。
このゲームは努力だけではどうしようもない。結果は不条理そのもの。

神様だか、宇宙の偉大なる存在だか、誰の差し金かは分からないが、
何かほんのちょっとした気まぐれで勝ち負けが決まる――。

だとしたら、失敗を恐れるのはばかげているし、
失敗を恐れて手数を出さず、みすみす成功の確率を下げてしまうのは
本当に愚かだとしか言いようがない。

いつかきっと素敵な恋愛が向こうからやってくる。
初めて出会った相手と、お互い見た瞬間にガビーンと電気が走って、
結ばれるかもしれない。

そう信じて、指をくわえて待っているだけの人間は、
生きることを留保しているだけの人間だ
その人生には、失敗も挫折もない。
その代わり、生きているともいえない。

犯人探しの無意味。

文化は遺伝するし、繁殖する。
いくら取り締まっても、文化はそれ自体が生き残ろうとする意志を持っている。
まさにそれ自体が遺伝子と同じ振る舞いをする。
だから、特殊な性欲も、文化の中で遺伝されていくことになるのだ。

幼い子供が犠牲となるような事件が起きると必ず、
「漫画が悪い」「アニメが悪い」と犯人探しが始まるが、
いまさらそれを主張したところで、何の意味もない。
性の商品化は文明化の一部だからだ。

漫画やゲームやアニメを犯人にしたいのならば、少なくとも
浮世絵の時代ぐらいまでは
さかのぼって批判
するしかない。

そして、文化は、文化としての存在価値を問われて淘汰されない限り、
取り締まって消えることはない。破廉恥だとか、反社会的だとか、
そういう理由で文化が
絶滅することはないのだ

映像で表現する使命感。

映画監督の使命は、虚構の中で欲望を形にして、
とりあえずそれを人々の目に触れさせることだ。
映画の主要な役割は、欲望を代行することであり、
だから、映画から暴力とセックスが消えることはない。

ただ、本来は、映画を見た人間が興奮したり、カタルシスを得たりした後で、
「はて、この映画で気持ちよくなった
自分とは何だろう?

と考えさせることが大事なのである。

つまり、「気持ちよかった」と思わせるだけでは表現としてはまだ稚拙で、
大切なのはその先にまで観客を誘うことだ。

       (~中略~)

そうやって映画監督である僕らは、欲望の本質をあぶりだすのが務めだ。
これも文明化の一つの側面である。
評論家は社会のうごめきの本質を見抜き、それに適切な言葉を与えることを
求められ、僕らはそれを映像で表現する。

幻影のお友達。

損得勘定で動く自分を責めてはいけない。
しょせん人間は、損得でしか動けないものだ。
無償の友情とか、そんな幻想に振り回されてはいけない。
そうすれば、この世界はもう少し生きやすくなる。

一つのことを信じ過ぎない。

ポル・ポトの過激な思想も元をただせば単純な正義から出発したはずなのだ。
それは、「人間は自由で、平等であるべきだ」という考えである。
それ自体は決して批判されるべき思想ではないし、間違ってもいない。
しかし、だからといって、それを徹底し始めると、どうにもおかしなことが
起きてしまう。こういうことは人間社会ではよくあることだ。

なぜかというと、人間という存在がそもそもいい加減だからだ。
同じ教育を施しても、伸びるやつとそうでないやつがいるように、
本来、人間は個体による能力差が大きい動物だ
だから、あまりに人間の平等性を確保しようとすると、
結局は人間の能力差やいい加減な部分まで否定せざるを得なくなる。

こんな人間のいい加減な部分に我慢ならず、民族を均質化させ、
優生思想を先鋭化させた集団がほかにもあった。
言うまでもなく、ナチスである。彼らは健康のためにと禁煙を推奨した。
身体障害者やユダヤ人を憎んだ。

運動会のかけっこで順位をつけることが差別だとして、
全員が一等にするようなことも教育現場では行われているようだが、
普通に考えればアホらしい、そんな行為がまかり通ってしまうのが、
この社会なのである。

元は「かけっこでいつもビリの子はかわいそう」という、
まことに善意あふれた愛情たっぷりの訴えから
始まった措置だと思う。子供に順番をつけるのは良くない、
という単純な正義感だったのかもしれない。

だが、そのアイデアのいきつく先に、人間社会を実に住みにくいものに
変質させてしまう可能性がある。
実は、そういうところに、人間の怖さが隠れているように思う。
煉獄への道は善意で舗装されている
というが、まさにその通りだ。

理念を高く掲げすぎない。

「人間は自由で平等である」。この前提には誰も反対しない。
おそらくスターリンも毛沢東も、ポル・ポトでさえも、反対はしないはずだ。
だが、人間を自由で平等でいさせるための社会システムを作ろうとした途端に、
殺し合いが始まる。

民主主義にはそもそも、そのような危険さがある。
北朝鮮が民主主義を国名に謳っているように、その理念は高級すぎて、
処方箋を誤るととんでもない事態となる。
極端な民主主義の行き着く先は強制収容所しかない。
だから、民主主義は中途半端で、
不完全な間がとりあえず一番うまく機能する。

人間は平等。はい、その通りです。
でもやっぱりちゃっかり儲けているやつもいれば、商売の下手なやつもいる。
それが人間の面白いところ。

せっかく才能があるのに、酒におぼれて、人生を台無しにするやつもいる。
わけのわからない映画を作って嬉々としている監督もいるし、
体に悪いと分かっているのにタバコをやめられないやつもいる。
いやはや、人間とはどうしようもない存在ではないですか――。

とまあ、このくらいの余裕で人間社会を眺め渡したほうが、
社会はうまくいくような気がするのである。

民主主義は根本にきれいごとの理念が鎮座しているので、
あまりにそれを徹底すると、危険だ、と先ほど指摘した。
日本人は民主主義の新参者なので、どうしても行き過ぎてしまう。
アメリカ人も原理主義的な傾向がある。長い闘争の歴史の中で学んできた
ヨーロッパは最も振れ幅を小さくして、修正する能力を持っているように見える。

だから、そろそろ成熟した社会に突入しつつある日本人は、
真面目すぎる自らの特性をよく理解して、
あえていい加減な道を選ぶべき時期
やってきたのだと、僕は思う。

民主主義に対する距離のとり方は、否定するでもなく、信奉するでもなく、
というぐらいが最も適当だろう。また、一個人の生き方としても
すべてをスッキリさせず、いい加減に生きていくことが一番ではないか、
と思うのだ。

模倣から全てがはじまり、下劣な模倣も続く。

僕は、「人の取り得る行動のすべては、
何らかの模倣である」

という考えを持っている。人殺しでも恋愛でも、戦争でも善行でも、
すべてがその例外ではない。
だから、家族内の殺人も度重なる模倣の末に起きた一種のブームなのだと思う。

       (~中略~)

欲望でさえ、模倣の末に生まれるのであり、
まったくの無から生じることはない。

       (~中略~)

この世は模倣されたモノたちで満ち溢れている。そして、ジャーナリズムの進歩が
模倣の速度を驚異的なまでに引き上げている。
あらゆることが一気に全世界に広まり、次々とブームが作られる。
これからの世界を生きる人間は、このブームの中に隠れている本質を、
いつも注意深く見つけ出す努力をしていないと、
自分の立ち位置を失ってしまうことになるだろう。
何かの事件が起きると、ジャーナリズムは
ゲームやアニメや漫画に原因を見つけようと
躍起になる。テレビのワイドショーではコメンテーターと称する人たちが、
本質とはかけ離れた議論を繰り返している。
何の発見もない言葉だけが無意味に再生産され、
際限なく展開されていく。
その言葉がまた、
新たな模倣を生むだけ
なのである。

大半のテレビ番組、ワイドショーは
ギャアギャアわめいているだけだが、
評論や批判の文化的な側面とは?

未成年の凶悪事件が起きると、母親はどのような育て方をしたのか、
という議論になるようだ。
母親の手記を読んだり、家庭環境を調べたりして、その病理を探そうとしても、
あまり有効な手段ではないと、僕は思う。

原因をすべて個人に帰しても、あるいはすべてを社会に帰しても、
それは間違いだろう。そんな当たり前の分析や、
現状を追認するだけの報道ならば、
それは害の方が勝ると僕は思う。

報道がまた新たな模倣を加速させ
事件の引き金にならないと、誰が断言できるだろう。

現実には報道をストップすることなどできないのだから、
もっと有効な言葉を使って、この社会を分析していくしか、
評論家やジャーナリズムの意義はないのではないか。

現代日本ほど言葉が軽んじられた時代はないだろう。
若者たちが次々と新しい言葉を発明しては使い捨てにしていくのと同じように、
評論家は何ひとつ有効な言葉を見つけ出せず、テレビは
模倣された言葉を無批判に垂れ流して
いくばかりだ。

それどころか「KY(空気が読めない)」といった若者言葉が突然脚光を浴び、
いいオトナがそれをまねて使う。
「KY」という略語に言葉としての温かみや本質はほとんどない。

しかし、それでもまだ若者たちが仲間内で使っているうちは
わずかに残っていたはずの言葉の体温やある種の有効性は、
世間に流布したとたんに失われ
流行遅れの冷たい言葉に成り下がってしまう。

こんな若者言葉を面白がって報道したり、
模倣したりしている場合ではないのである。

ある現実を言い当てるときに、
表現に豊かな内実を持たせて、
それを社会に再び転化するような
力を持つ「言葉」を生み出す

ことこそが本来、文化的な仕事なのだ。

言葉によって、社会を使いやすく

映画評論で言えば、映画を作った当の監督が驚くような、
「なるほど、オレが作った映画には
こんな意味があったのか」

と、作者自身をハッと目覚めさせ、作者の無意識をも再認識させる
ような評論にはめったにお目にかかれない。それが今、
できているのはスタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーぐらいだろう。

だが、今必要とされているのは、映画評論などではなく、この社会を、
このろくでもない社会全体を
言い当てる鋭い論評なのだ。

僕らには言葉が必要だ。有効な言葉が必要なのである。

それがないままに軽いコトバだけが、テレビやネットの上で
無意味に模倣され続ける結果、ある状況に陥った人間がヤリ玉に挙げられ、
よってたかって叩きのめされるという、社会的リンチ状態が発生するようになった。

本当にろくでもない時代が訪れたものだ。
こんな時代には、いくらか斜に構えて、いい加減に生きるぐらいしか、
僕らには有効な手立てはないように思う。
そんなふうに思ったのことが、本書を著すきっかけだった。

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